神の創りあげた地




 恐怖というものが私を襲ったのは、そのとき私が、本当に孤独だったからなのかもしれない。私を守ってくれる人はおろか、私を見つめてくれる人さえいないときだったから。

「こうしていても、仕方ないわね」
 心に広がる寂しさを、押し留めるようにして私は立ち上がる。
 わざと大きな声を出した私だけれど、結局それは辛いだけだった。誰も私を見ない。そんなことがこんなにも悲しいことだなんて。
 人混みは、途切れていない。けれどここには、私を知っている人はいない。決して。いいえ、本当はこの世界中に私を知っている人は誰もいない。だから、私の存在はないのも同じ。
「本当に、神様というのは意地悪ね。思い出してしまったわ、昔読んだ昔話。浦島太郎、これじゃあ、あの人と同じじゃない。独りぼっちよ」
 涙が頬を伝う。けれど私は知っている。この世界では、こんな道端で女の子が泣いていたって気に留める人などほとんどいないことを。
 知っていたところで嬉しくもない知識だわ。だいたい悪趣味よ、こんな、私達の暮らす世界と全く同じ世界をもう一つ作ってみるなんて。
「だから嫌いなのよ。神なんて」
 さっきよりも口調が苦々しいものに変わる。だって、この世界にはもう一人の私がいるんだ。ただ一つの違いは、顔が異なること。
「ありがちなマンガみたいなハッピーエンドは決して起こってくれないか」
 その子になりすませれば、私は居場所を得られる。そんなことは出来ないようになっていた。
 この場所は刑務所。またの名を、地獄。

 私は、ただやみくもに歩いていた。何処へ行ったって私の居場所がないことを確認しながら。
 私の住み慣れた町と同じ作りで、同じ名前の、知らない町は、あまりに私に冷たかった。私の家と全く同じ家が、同じ表札を下げて佇んでいるのを見たとき、一瞬私は自分の家に帰ってきた錯覚を覚え、嬉しさが勝手に胸に広がった。
 けれどそれはただの夢にすぎなかった。ベランダで洗濯物を干している人を見つけ、顔を凝視した私。きっとあの人は私の母と同じ名前である。無意識に私はそう確信した。
 仕種が、全く同じだったから。お母さんの癖と、全く同じだったから。
 盗賊になったことをこんなに後悔したのは初めてだった。プライド高き盗賊仲間の女頭領の私が、こんなに後悔する日が来るなんて。
「地獄、か。本当に、ここは地獄という名の似合う場所ね」
 足下の乾いたアスファルトに、ボタボタと水滴が落ちる。こんなに私にも涙というものは残っていたんだなあと、どうでもいいようなことを考えてみる。現実は、あまりにも辛かった。
 それから私は、自分の知っている場所から遠ざかるように歩き始めたのだ。ただ、初めて味わう恐怖に打ちのめされて。
 私は、過去に思いを馳せた。毅然とし、男どもの上に立ち、そしてなにもかも欲しいものはこの手に入れた。捕まることなんぞ怖くなかった。怖くなかった、けれど。
「私が私であることを、証明してくれる人は、誰もいないのね」
 思わず呟く。誰も私の言葉を聞いてくれやしないのに。

 そして、ふらふらと歩いているうちに、ある貼り紙を私は見つけた。
 この世界で私達囚人は死ぬことは許されない。ある程度の金は与えられており、後は自分で働くなり盗むなりして生きる運命。
「働いて、みようかな」
 汗水たらして働く母の姿を、私は小さいときから見ていた。その姿を、私はとても好きだった。思ってみれば、何故私は働くことを拒み盗賊となったのだろう。強くなりたかった、ただそれだけだったのに。
「こんなの、強さじゃなかったんだ」
 今日は今まで忘れられていたぶん涙が自己主張しているのかしら。そうじゃなくてはおかしいくらい、今日の私は泣き虫。
 定食屋さんの店先に貼られたその貼り紙は、住み込みのバイトを探しているというものだった。この世界に落とされて初めて、私は心を弾ませた。

 約一年という時が経った。私は、自分の居場所というものを見つけていた。そのお店は優しい人ばかりで、私はその幸せにどっぷり浸かり、一年前味わった恐怖など忘れかけていた。それどころか、自分が地獄に落とされたことさえ忘れてしまいそうだった。
 そんなある日、私の前に天使が現れた。
「神の犬か。何のようだ?」
 私は毒づいた。強い嫌悪感が体を走る。
「そんなこと言うんですか。まだまだ反省が足りないようですね」
 天使の指が私の頭にかかる。
 嘘、体が動かない。
「何故、ここが地獄と呼ばれているか、貴女はまだ知らないんですね。可哀想に」
 天使の顔に見下した笑いが広がる。口惜しい。
「荷物をまとめてください。今日中にここを貴女は出ていかなければいけません。貴女はこの場所を忘れてしまいますし、今、貴女を知っている人達も貴女のことを忘れます。貴女はもう一度振り出しに戻るわけです。詰まるところ、水の泡ってヤツですね」
 私の目に涙があふれた。私には選択権もない。何もできない。
「そんなことして、楽しいの?」
 口惜しかった。また、誰も私の存在を知らない世界に戻ってしまう。
「さあね」
 そして、天使は消えた。
 私は、操られたように、その晩店を出た。


 私は町を歩いていた。
 ただ、歩いていた。
 もう何年もこうして歩いている気もするし、私には帰る場所があるような気もする。
 私は誰だろう。既に私は自分の存在さえ忘れてしまった。何で私はここにいるんだろう。ここは何処なんだろう。どうすれば、良いんだろう。

 そして私の前に天使が現れた。
「貴方は、誰?」
 驚きはしなかった。私には常識というものが判らなかったから。
「そんなことより君は自分のことを知りたくない?」
「自分の、こと?」
 この天使は私のことを知っているの?
「君の償いは終わったよ。後は、君の世界に戻って、もう一度自分の場所を探せば良いのさ」
 そう言って天使は、楽しそうに嗤った。

                       1996,9,22